その懇願はある意味残酷。彼の心中も一度考えてみてくださいよう。
追記に置きます。
『あにうえー!』
『こら、転ぶぞ―――おいでアズ、今日は一緒に剣の稽古をしようか』
『はい!』
『嬉しそうだね、アズは。勉強だと嫌がるのに』
『早く強くなって、兄上を守るのが私の夢ですから!』
『それは心強い』
このところ、ずっと昔の夢を見る。幼い頃、兄と過ごした幸せなあの日々を。そして、それを反芻してアズハルトは一日一日をやり過ごしていた。
次期国王として、やらねばならないことは山積みである。しかし、自分が王位を継ぐとは欠片も考えていなかった彼は、何をやればいいのかわからなかった―――それに。
まだ認めたくなかった。
自分が王になること―――兄が、兄でなくなること。
だからアズハルトは、『何もしない』ことを選び続けた。王としての役目を果たさず、自室で袋小路の思考に耽る日々を送り続けた。
しかし、行動を起こさねば何も変えられない。現に、王宮は主役を置き去りに戴冠式の準備を進めている。段取りを説明しにくる男を何度も追い返したが、もうそろそろ、限界だろう。逃げ続けてもより不利な状況になるだけだ。それなら、この状況を受け入れて、自分の意志を兄に伝え続けるしかない。
本日何回目かのノックが耳に届く。重い腰を上げ、応じようと扉の鍵に手を伸ばすと――
「陛下、戴冠式の日程ですが…」
懐かしい声に、それまでの決意が打ち砕かれた。きわめて自然な、今まで来た男達のような調子の、臣下のそれ。今までの関係を、日々を、まるで初めからなかったもののように思わせる、そんな言葉。
……今まで、わざとらしいくらい避けていたくせに、何なのだろう。そんな風に振舞えるなら、もっと早く話しかけてくれればこんなに辛くはなかった。
もしかして、待っていれば元通りの兄上に戻ってくれるなんて、そんな希望を抱かずにすんだのに。
「私は王になるつもりなんてない。戴冠式には兄上が出ればいいでしょう」
怒りを押し殺せず、唸るような声が出る。鍵は開けなかった。今、扉の向こうを見たら、何をするのか自分でもわからない。
「次の王は貴方です。臣下に敬語など使わないでください」
対するリヴィウスは、どこまでも静かだった。淡々と、彼が認めたくない『事実』を告げる。
「兄上!いい加減元に戻って下さい!」
沸騰する感情のまま、両の拳を扉に叩きつける。
まるで、『開けて』と喚く子供のようだとアズハルトは頭の隅で思った。鍵をかけているのは、自分だというのに。
「元、とは?」
見せ掛けの柔和さを削いだ、冷ややかな声にはっとする。
「私は昔から、こんな人間ですよ」
冷たさの中に、兄のその声には、確かに―――黒い感情がこめられていた。
全身から血の気が引いていく。目の前が真っ暗になる。絶望感が、視界を染めて。崩れ、落ちる。
「いい加減に我侭はお止めください。……また、人を遣ります」
息を吐き、平静を取り戻したリヴィウスは、それだけ告げると部屋の前から去った。
足音がだんだんと遠ざかる。
それには気づかず、アズハルトは力なく扉にすがりついた。小さな声であにうえ、と呼ぶ。あにうえ、いかないでください。何度も、何度も、幼い言葉で。
届かない呼びかけに、応える者はもういなかった。
**
(くそ……ッ)
弟の部屋から離れ、リヴィウスは胸の内で舌打ちした。足早に廊下を行く、その表情には常にはない険が混じっている。
(何でもないことだ、わかっていたことだ……何故、ああ、苛々する)
本当は立ち去るつもりなどなかった。
最後まで『臣下として』振る舞い、淡々と説明をこなすつもりだった。そうやって、わからせてやるつもりだった。なのに。
(アズが求めているのは、僕の、『優しい兄』の仮面だ)
それは決して、自分の本質ではない。王の血を感じさせる容貌を持った『弟』を疎ましく思う気持ちを覆い隠すために築き上げてきた仮面だ。
この仮面を捨てたら、どんな顔をするだろう。いずれすべてを手に入れることになる『弟』の苦しむ顔を想像し、ことさら優しく、暖かい存在になろうと心がけていた。
……演技と言うには、少し熱が入りすぎた部分もあったが。
(お前は、何も見えていないし、見ていない! ……結局、)
アズハルトは、兄がこんな冷たい人間ではないと思っているらしい。その境遇を、そして自身は恵まれていることを知っているのに、兄の心に澱むものがあることを、想像すらしていない。
それは、『リヴィウス自身』を彼が見ていない、ということだ。
彼が必要としているのは、『優しい兄』としてのリヴィウスであり、その仮面を捨てたリヴィウスは、もはや彼にとっての兄ではない。
(お前は――ただ―――自分を庇護する存在が欲しいだけなんだ)
苛立ちを抑えきれず、壁に拳を叩きつける。今まで向けられていた敬愛の目も、言葉も、すべてが唾棄すべきもののように思えた。
そうなるように、脆弱な精神を持つよう甘やかしたのは自分だというのに。
―――いや、だからこそ、苛立つのか。
「あとすこし……あと少しだよ、アズ」
痙攣じみた笑みを口元に貼り付け、リヴィウスはうわ言のように繰り返す。愛称を呼ぶ声は、どこまでも暗く澱んでいた。
「今度こそ、本当に、終わらせてやる」
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まあつまりアズは世間知らずな甘えんぼさんってことです。でもそうなったのは兄上のせいでもあるという。
まだまだ兄上の憎悪の理由も目的ももやもやで大変気持ち悪いでしょうが、あとちょっとお待ちください…!がんばります…!